――指が震える。
眼前に掲げた指先を僅かばかり前にやり呼び鈴を鳴らす。それ以上この手が為すべきことなど無いというのに、局所的に金縛りに襲われたかのように動く様子を見せない。
己がこれまで潜り抜けてきた戦場を思えばこの程度のことが何故、と叱咤するも何処吹く風。いたずらに時が過ぎるばかりで心が奮うまでに至らなかった。
常日頃侍たる者の在るべき理念を率先して自ら実践し、今脳裏に渦巻く尻込むような懊悩とは無縁と言っても過言でないというのに、待ち受ける展開を想像するだけで身が竦む思いがした。
いっそ事態が向こうから飛び込んでくれば、退く選択肢などないのだから腹を括り思い切ることも出来るだろうに。
このような逡巡を悩みの渦中である彼奴に知られようものなら、不甲斐ないと蹴飛ばされるだろうか、それともそんな殊勝な性質ではないだろうと嘲笑されるだろうか。次々と浮かぶ推測はどれも今ひとつ噛み合わないように思えて霧散し、代わりにくつくつと笑声が漏れる。
あの眩い白が、打ちのめされようと屈することなく立ち続けるあの背中が。貧困な思惟の枠になど収まる筈もないのだろう。如何なる時も不羈として囚われず己が思うままに進むからこそ驚かされ、惹かれ焦がれるのだろうと。
合点がいくと途端口元と共に強張りが緩んだ気がして姿勢を正す。改めて手を伸ばし――
「人ん家の前で延々何やってやがる・・・・・・ヅラ」
呼び鈴に届くより前に、低く唸るような家主の声が遮った。
取り立てることもなく終わろうとしていた一日に、異変の兆しが見えたのは子夜を幾許か過ぎた頃。
運よく舞い込んだ割の良い仕事にほんのりと暖まった懐で些か贅沢な食卓を囲み、程無く訪れた眠気にぐずる同居人の少女を寝かしつける。それに続いてすぐさま寝る気にもなれず、酒を片手に過ごし始めた銀時の感覚がひとつの気配を捉えた。
階段を登る足運びは淀みなく、帰り道を誤った酔っ払いとは程遠く。玄関扉の前で立ち止まり、何をするでもなくじっと立ち尽くす存在は不審を通り越して気味が悪い。
階下の大家の下へ時偶訪れる破落戸のように殺気や敵意でも向けてくるのならば、目的の推し量りようもあるがそれも叶わない。考えていても答えが出る訳でも無く、物取りの類ならば打ちのめしてしまえば良いと玄関を覗き込み。自身の浅慮を即座に後悔した。
かぶき町が眠らない町といえど盛り場の中心から離れれば明かりも乏しく、街灯の僅かな光を背負い玄関の硝子戸から伸び廊下に映る影はぼんやりとして、ぬるりとした輪郭は起伏が少ないように見えた。それがまた存在の空漠さに拍車をかけ、反射的にそら寒さを感じ居間と隔てる引き戸へ身を隠す。
「幽れ・・・・・・いや、ないないない。きっとあ、あれだ。しまっちゃうおじさんが寝てない子供を一軒ずつ捜し歩いてるとかそういうあれだよ」
ふと脳裏を過ぎった口にするのもおぞましい可能性を否定したいがあまり、慌てて他の存在へ挿げ替えようとするものの声が上擦る。万事屋の子供は既に寝ているのだから関係ないのだと念仏の如く唱えても、変わらず気配はじっと立ち尽くすことを止めない。
この時ばかりは気配に鋭く研ぎ澄まされた感覚と、ふてぶてしいまでの土性骨を銀時は恨めしくすら思った。
恐ろしさに気絶してしまえる程惰弱な精神であれば。最初から気配に気付くことなどない程愚鈍であれば――微酔いの心地良さに身を任せて夢路へと旅立っていたであろうに。
張り詰めた神経は鈍るどころか過剰に感覚を尖らせ、知りたくもないことまで拾いだす。
今の時分も漏れ聞こえる飲み屋客のざわめきの間を縫って、然し混ざることのない異質な声。
くぐもり抑揚は淡々として、果たして言葉を紡いでいるのかさえ判別がつかないのに、それが「音」ではなく「声」だという確信だけが銀時の胸に落ちる。
声は次第に間隔を狭め、大きさを増し、漠としていたものが形を成してきた気がして喉が引き攣った。からからと干上がる渇きを潤そうと、固唾を呑むのを待たずして紡がれた言葉は――堆く積もった惧れの山に加わることなく吹き飛ばし、どっと全身から緊張を霧散させた。
何時の間にやら握り締めていた拳は汗ばみ、長嘆息が漏れ出て自覚するよりも張り詰めていたのだと知る。
すっと晴れやかになった心地良さを味わう暇も無く、後を追って出でた怒りがうねりをあげても、今度は押し留めて蓋をすることはしなかった。
引き戸に預けていた身体を反転させ大股で歩を進めれば、玄関まで数秒とかからない。つい今しがたまでこの距離に慄いていたかと思うと滑稽さが際立って腹が立つ。例え向こうは直接的には何も仕出かしていなかろうと、それが故に。
この鬱憤は丸ごと叩きつけてやろうと矛先を定め、玄関の戸を開き騒動の主を睨みつけた。
「人ん家の前で延々何やってやがる・・・・・・ヅラ」
「何とは決まっているだろう、万全を期して初訪問の想定して予行をしている。粗相でもして失礼があってはいかん」
「そうかい・・・・・・ならまずいっぺん時計を見直してこいやァァァァァ!!」
応えを返しても未だ没頭している桂に構わず渾身の力で蹴り飛ばし、高く弧を描き階下まで真っ逆さまに落ちる姿を見てやっと、溜飲が下がる思いがした。
「それで何の用で来た。ここまで騒いどいてくだらねー用なら今度こそ吹っ飛ばすぞコラ」
不意打ちを喰らっても即座に思索の淵から立ち戻り、どさくさに紛れ入り込もうとする桂と、流されて堪るものかと立ち塞がる銀時で鬩ぎ合いが始まるも、長くない堪忍袋の緒を騒ぎで切らしたお登勢の手で両成敗とばかりに押し込められた。
片方でも相手をするのが至極面倒だというのに同時に来られては抵抗を続ける気力も足りず、観念して万事屋に通す間、客に対する扱いが悪いだのと垂れ流される文句に突っ込むのも億劫で、客間のソファに腰を下ろしながら睨め付けてやる。
そもそも招いた覚えなど微塵も無く、戸を開ける手間も惜しんで制裁を下さなかっただけ優しくしてやったのだが、目の前の野暮天は言わねば思いが及ぶことはないのだろう。
「先日の春雨の件だが、流通経路を完全に潰すのは叶わなかったが一段落したのでな。図らずとはいえお前の所の子供らを巻き込んでしまった詫びだ」
「そりゃぁ殊勝な心掛けだが、ここに一番頑張った人間が居るってのに何俺だけ外してやがる」
一方的に爆弾魔の汚名を被せられかけた再会とは異なり、万事屋への依頼中に遭遇した奇禍を助けられ、利害の一致で手を借りる結果となった上で礼に拘るほど銀時は厚顔ではない。ないが、良くも悪くも直情径行の桂の言をこのまま流してしまえば、さらりと終わった話として扱われてしまうのが見えて気に喰わないのも事実。
連んだ年月だけは無駄に長いが故に横槍が大して効力を持たないと知っていても、口を挟まずにいる方が結果的に磨耗した経験から堪えることもなかった。
「中身は菓子だ。落としてしまって少々包装が汚れてたが恐らく大丈夫だろう、明日にでも渡しておいてくれ」
「おい人の話聞いてんのかクソヅラ!」
「ヅラじゃない桂だ。そう騒がずとも別に持って来ている」
皺が寄って薄汚れた紙袋を奪われ掴み掛からんばかりに迫られようと、構わず桂は腰掛ける際に脇に立て掛けてあった鉄拵えの古びた刀を卓に置き差し出す。
「こいつは・・・・・・」
目の前の物が本物であるか否かなど尋ねるまでもない。
嘗ては常に懐で抱え込み、臆病な心が拠る支えでもあり、半身も過言ではなかった彼の人の象徴。刀とあれば選んでいられなくなる戦場に持ち込んで、使い潰してしまうのが忍びなく預けていた。現実天人の固い装甲を斬れば一太刀で刃毀れし、折られれば敵の獲物を奪うか手近で補充をして、合戦が終わる頃までもったとしても血油に塗れ赤錆に覆われて、手入れは無意味に近かった。
「俺の家に仕舞い込んでいるよりも、お前が持っている方が喜ばれるだろう」
単純な筋力の差で言えば記憶よりも軽い筈が、手に取るとずしりとした重みを伝えて馴染む。腰に差したままにしていたら、こうして再びお目に掛かることもなかったやも知れない。
否、着の身着も同然で離脱した時点で諦めていたも同然だったというのに。
想像だにしなかった再会に訝しみが脳裏を過ぎる。考えもしなかった。顔を突き合わせども恨み言を浴びせられることはあれど、この堅物が自ら持ち込むような事態など。
「随分と気前がいいじゃねえか、けど」
党の奴等の前で大将の誘い突っ撥ねた俺にこんなことしていいのか、と言い掛け言葉を呑み込む。面を擡げた先で桂の貌は、悪童のような笑みを満面に浮かべていた。
得心がいって笑い返してやれば、微動だにしなかった柳眉をにやりと緩ませる。
「随分と悪巧みが上手くなったもんだが、残念だったなヅラ」
「里心を擽れれば御の字、この程度で諦めてやる気は毛頭無いぞ銀時。幾度蹴り飛ばされようが追い出そうがだ」
――総てを諦めた筈だった。
手にすることを止め、二度と懐に抱え込むまいと。そうすれば楽になれると妄信し残っていたものからも逃げ出した。
亡者の如く追い縋る影に怯え、目を塞いで彷徨うも足元から離れることは無く、気付けば再び灯を背負い込んでいる。
「精々無駄な足掻きをしてみるこった。こちとら辛気くせーもんに付き合うつもりは毛頭ねえんでな」
喪う怖ろしさも寒さも御免だと嘆いても、奈落の底から引き上げられた温もりが忘れられず、慕わしくて。
目の前の男は銀時の躊躇や懼れ、逡巡も――或いは飢えすら承知の上で突きつけるのだろう。より色濃く残滓を求めているのだと嘯いては、身を寄せる。
「それならば俺も遠慮無く付け込ませて貰うとしよう」
等しく焦がれているが故に。
唇を割って入り込まれた先を擽られれば、奥で褪せた甘苦が滲んだ。