あの頃はまだ平和だったのだ、と誰かが言った。戦はあれど、まだ何も知らずに野を駆け川で水面を揺らし、無邪気に笑っていられたのだから。今やその遠く儚き記憶はまるで夢のような話になってしまっている。
「恨むなら時代を恨め、という事か」
 ぽつりと長い黒髪を纏めた少年が呟いた。抜き身の真剣を手にし、拠点にしている寺の庭で太陽が昇り始めた空を見上げ、ふっと息を吐くとひゅっと刀を横薙ぎに払う。庭に咲いていた椿の花がまた一輪白く染まった土へと落ちた。

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 ああ、燃える。真っ赤に揺らめくそれを見て、煤で汚れた頬に涙が一筋伝う。その僅かな涙さえも火の粉が攫って焼き尽くす。一度生まれた憎しみは消える事無くどんどん溢れて止まらない。心が血を流して泣き叫んでいるのに、己の頭の中は冷静だった。先生、先生と二人の幼馴染みが大人達に抑えられながら喚いているのを横目で捉えてまた燃えている寺子屋に視線を戻す。羨ましいと、思った。自分はたった一筋しか涙を流せなかったというのに、あの二人はぼろぼろと沢山の涙をその目から落としているのだから。
「あの子は薄情者だ」
 大人達がそんな俺を見てそう囁き合うのが聞こえる。別段気にはしていない。そんな言葉を投げ掛けられるのは初めてではないし、俺には口煩い二人がいるから。あの二人が俺を理解してくれている限り、俺の心は乱れずに済むのだ。けれど、魂の帰る場所は。俺が安心して帰れる場所は、正しく今、真っ赤に燃えて灰になってしまっている。ああ、もう帰れないのだと。そう悟った瞬間、俺の口から獣の咆哮のような叫び声が上がった。

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 冬特有の冷たさに身震いしながら布団から身体を起こす。久しぶりにあの時の夢を見た。「銀時」の終わりであり、「白夜叉」の始まりであるあの時の。半分開いた襖から見える庭は雪で白く染まり、まばらに赤が散っている。椿はまだ全て落ちてはいないようだ。ふいに風を斬る音が聞こえ、銀時は枕元に置いてあった真剣を手に取ると襖を開け放して草履を引っ掛けて庭へと降りた。
「・・・・・・何だ。ヅラか」
「起きて第一声がそれか」
 一人で稽古をしていたらしい桂に声をかける。お決まりの台詞が返ってこないのに首を傾げつつ、彼の足元に散らばる椿を見て小さく溜め息を漏らす。
「荒れてんな。何かあったか?」
「ああ。とびきり良い知らせがあった」
 苛々とした口調でそう口にすると、桂はまた刀を払った。ぼとりとまた赤が落ちる。
「・・・・・・戦を、終わらせるらしい」
 その言葉の意味を理解するのに数秒かかった。
「・・・・・・・・・・・・は?」
 今の己は酷く呆けた顔をしているのだろう。戦を、終わらせる。その言葉が意味する事は、つまり・・・・・・。
「近々、粛清をするそうだ。奴ら・・・・・・大人しく幕府側につけば命だけは見逃してやる、とほざきおった・・・・・・!」
 だん、と桂が握り拳を木の幹に叩きつけた。辛うじて付いていた枯れ葉がひらりと宙を舞う。それを見つめながら呟いた。
「・・・・・・愚かだな」
「・・・・・・ああ」
 くつりと喉を鳴らして笑う。水を失った魚のように暴れる様は見ていて愚かしい。俺達は自分で自分を導けない程馬鹿ではない。帰る場所を失い、己の帰る場所を探している獣に過ぎない。だが、幕府を己の帰る場所にするくらいならば自らの心臓を止めるだろう。
「・・・・・・潮時、か」
 桂が悩ましげに目を閉じ、握っていた刀を鞘へと納める。
「銀時」
「分かってるさ」
 彼の言いたい事を汲み取り、刀を腰に差して不敵に笑った。
「殿(しんがり)は任せろ」

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 血生臭い一陣の風が吹く。天人と人間の・・・否、幕府側と攘夷側の戦いは、これで終わる。終わらせる。これ以上犠牲は出したくない。
「さあ」
 ぺろりと舌舐めずりをして口角を上げる。まるで良からぬ事を思いついた子供のように。
「御前等、最後の戦いだ」
 真白な陣羽織に、所々刃毀れしている刀が一振り。銀色の髪を風に遊ばせ、頭に巻いた鉢巻が空中で踊る。狩りをする獣のような獰猛な光をその紅い目に映し、その少年はざり、と土を踏みしめた。
「どんなになっても、生きる事を諦めるな」
 前方に見える敵を見据え、腰の刀に手をかける。
「這い蹲ってでも、生き延びろ」
 だん、と大地を蹴って走り出す。咆哮を上げて刃を振り上げるまだ若い少年の異名は―白夜叉。