混沌とした暗闇の上から、すがるような声が聞こえる。
「高杉」
何度も、何度も同じ言葉だけを繰りかえして、願うように祈るように、その声は間断なく鼓膜をゆらす。
「高杉」
必死と形容するに足るその言葉は、名だろうか。聞きおぼえがあるようなないような、不思議な心地がする。
「高杉」
そう、それは名だった。
少しずつ、ばらばらに飛びちっていた意識が集まりはじめる。
おぼろげな仲間の顔、硝煙の匂い、噴きあがる血、体温を奪う雨、そして誰かが呼ぶ声。
タカスギ、高杉――それが自分の名だと一瞬ののちに思いだし、同時に声の主に思いあたった。答えなければ、目覚めなければと、ともすれば落ちていきそうになる意識を引きあげる。
そうして重い瞼をこじ開けるのに、さらに数秒の時間を要した。
「高杉」
開いた目に映るのは、思ったとおり、日に透ける銀髪が眩しい幼なじみの姿
「・・・・・・銀時」
確かめるように呼べば、めったに見ない微笑が返されて少し驚いた。
「やっと起きやがった」
驚くほど自由の効かない体をなんとか半身だけ起こして、まわりを見わたす。目覚めたのは六畳ほどの一室で、開けはなたれた障子の向こうは縁側から庭へ続いているようだった。かすかな鳥の鳴き声と、朝日にのびた木の影が床の上からでも分かる。香る花の匂いは桜だろうか。
全体的に質素な造りだが、天井には雨漏りの跡もないし、部屋は綺麗に片づけられている。廃屋というわけではなさそうだ。
「・・・・・・俺は、どれくらい寝ていた」
かたわらに座す銀時に訊ねる。他にも訊きたいことは山ほどあったが、まずは仲間の安否が気にかかった。鬼兵隊にとって、大将たる高杉の不在は士気に影響しかねない。厳しい戦況において、それが意味するところを知らぬわけではないのだ。こんなところで寝ている場合ではない。
「他の連中はどうした。これまでに襲撃は」
「高杉」
矢継ぎ早に問うたところで、そう短くさえぎられる。いいんだと続ける銀時の声は噛んで含めるようで、見かえすその目の真摯さに思いがけずうろたえた。
よく見れば、袖と裾に流水紋を青く染めぬいた、見なれぬ長着を着る銀時は、もういいんだと同じ言葉をくりかえした。
「・・・・・・どういう、ことだ」
「終わったんだよ」
はっきりとそう告げる彼の腰には、刀がない。
「攘夷戦争は、終わったんだ」
とん、と胸を突かれたような衝撃に、言葉を失った。
終わった、と今、銀時はいったのか。師を取りもどさんと参じたあの血まみれの日々が。
「終わった・・・・・・?」
信じられずにくりかえせば、「ああ」ともう一度、銀時がそれを肯〈うべな〉う。
「だから、もういいんだ」
落ちついた声で、ぽつりぽつりと彼が語りはじめたのは、高杉が知らないこれまでの時間のことだった。高杉が戦時下で重傷を負い、その治療に使用した薬の副作用によって、実に六年もの間眠りつづけていたこと。
幕府を相手取った激闘のすえ、獄中から松陽を救いだすことに成功したものの、彼が高杉の目覚めを待たず五年前に亡くなったこと。
彼の救出とほぼ同じころ、廃刀令により攘夷志士らは刀を失い、攘夷戦争が事実上の終戦を迎えたこと。
急速に流入した天人の技術・文化によって、人々の暮らしが一変したこと。
いまだ水面下で活動を続ける攘夷志士らは、幕府によって不穏分子とされ、追われる身であること――。
言葉として理解はできても、現実として受けとめるには衝撃が大きすぎた。
「・・・・・・悪ィ、いきなりこんなこといわれても、わけ分かんねェよな」
とりあえず点滴はずすわ、と、銀時が細い管をたぐる。その時はじめて、高杉は自分の左腕、寝間着の袖がまくられた肘のあたりに、その管が繋がれていることを知った。そしてなぜ、自分がそれに気づけなかったのかも。
「・・・・・・これは」
左側が狭い視界をいぶかって左目に手をやると、そこにあったのは幾重にも巻かれた包帯の感触。点滴の管を抜き、器具を片づけようとしていた銀時が、それに気づいて
「その傷が元で、お前、こんなに長い間眠ってたんだ」
覚えてないかと問われたが、記憶を見つけることができずに頭〈かぶり〉を振った。二の句を継げない銀時を見る限り、恐らくこの目はもう光をなくしてしまったのだろう。どこか他人事のように、冷静な自分がそう判じていた。
我が身に起こったことと自覚するには、受けいれねばならない現実があまりにも残酷すぎる。
「なぁ、高杉」
かたわらに座りなおした銀時が、なだめるようにいう。「目ェ覚めたばっかで、――いろいろ変わってるし、思いだせないことも多くて、混乱してると思うけどよ。少しずつ、理解してけば大丈夫だから。な?」
どこか必死なその物言いに、お前らしくもないと返そうとして、やめた。
そう断ずるに足るだけの記憶が、いまだはっきりと輪郭を持てずたゆたっていることに気づいたからだ。
*
そうして目覚めてからの数週間、高杉はほとんどすべての時間を銀時とともにこの家で過ごした。寝たきりだった体は衰えが激しく、最初の数日は歩くのもやっとという状態だったが、六年動かさなかった割には回復も順調らしい。はじめは不本意ながらも銀時の手を借りねばならなかったが、今では問題なくひとりで歩くことができた。戻らないのは、詳細な記憶だけだ。
江戸から遠く離れた里山の中腹にあるというこの家は、庭に出れば眼下にぽつりぽつりと何軒かの民家を見ることができる。その風景は高杉の記憶にかろうじて残るそれとほとんど変わらないように思えたが、今や江戸は諸外国ですら及ばぬほどの経済成長を遂げ、まるで異国のように様変わりしているという。
「まぁ、あんまり江戸には近寄れねェから、俺もこの目で見たのは数えるほどしかねーけどよ」
廃刀令によって終わった攘夷戦争、そして始まった粛正という名の攘夷志士狩り。それはかつて攘夷戦争に身を投じたとあらば誰もが対象となるものだった。銀時は高杉を連れてその粛正の手をからくも逃れ、この田舎まで逃げのびたのだという。
「・・・・・・ひでェ話だな」
結局、幕府は天人たちにこびへつらい、剣を取った志士たちを切りすてることで恭順を示し、従属のうえで与えられる繁栄を望んだというのか。苦々しく吐きすてれば、銀時も「そうだな」と同意を示した。
そのうえで、彼がやわらかな声音で語った話がある。
結果はどうあれ、長く内戦状態だった国内が開国という選択によって平定され、人々が戦火に怯えぬ日々を得られたこと。
天人の進んだ技術の流入により、例えばかつての死病が、今は治せる病になったこと。
「なにより、先生を取りもどすことができた」
暗い獄中から敬愛する師を取りもどし、最期を日の光の下で迎えさせることができたのだと。
「覚えてないよな。先生、一度だけ、お前を訪ねてきたことがあるんだ」
「先生が・・・・・・?」
「ああ。お前の手を取って、先生、泣いてた。それで、俺にこういったんだよ」
どくりと、心臓が早鐘を打つ。
「『間もなく世の中は変わるでしょう。どうかあなたは、あなたたちは、私よりも長くその新しい世を、笑顔で生きてください』って」
松陽の穏やかな声が耳の奥に甦る。ああ、きっと、優しい彼のことだから、自分のために傷ついた高杉を見て、涙を流さずにはいられなかったのだろう。
あやふやな記憶のなか、それでも燃えつづける怒りのような感情を、正直なところ高杉は持てあましていた。消してはならぬと思うのに、向ける先が分からないのだ。もっといえば、それがなにに根ざす怒りなのか、あるいは本当に怒りであるのかさえ、記憶という依り代があいまいである以上、確信を持てないのだ。
新しい世を、笑顔で生きてください。
その言葉にすがって、燃やすことしかできないこの感情を、心の奥深くに埋めて埋み火に変えてしまってもいいのだろうか。
――憎むことをやめれば、笑って生きられるのだろうか。
銀時はいう。
「いっぺんしかない人生なら、楽しく生きたいと思うのが普通だろ」
高杉は問う。
「そのいっぺんしかない人生を、ふいにされた連中のことを忘れてもか」
「忘れる必要はねェんじゃねーの」
言葉を探す、間。彼はこれほど慎重な物言いをする男だっただろうか。それすらも今はひどくあやふやだ。
「そいつらの分まで背負って、一度きりの人生生きてみるのも、酔狂だが悪くないと思うぜ」
*
庭から吹きこむ風が、ばらばらといたずらに新聞の頁をめくる。しかたなく立っていって、高杉は障子を閉めた。吹きぬけた風のなごり、冷たい空気が部屋のなかによどんでいて、思わず肩を震わせる。季節は移ろい、気づけば初秋にさしかかっていた。
この小さな家で銀時と送る暮らしは、慎ましくも穏やかなものだった。ここ数年間で粛正の手は緩やかになっており、よほど目立つことさえしなければ大丈夫そうだと教えてくれたのは、ふもとの村に知りあいがいるらしい銀時だ。まるで小春日和にまどろむような、静かであたたかい日々。
ここに松陽がいてくれれば、どんなに幸せだったか。
銀時とふたり、来春には松陽の墓参りに行こうと話したばかりだった。
ふと畳の上を見ると、先ほどの風に運ばれてきたのだろう、色づきはじめた楓の葉が一枚落ちている。
この家の庭に楓などあっただろうか。先ほど閉めた障子を開けて庭へおりてみる。数えるほどしかおりたことのない庭は、すみの方に銀時が燃やしていたたき火の跡があるくらいで、のこりは桜の木しかない。
「山の上から飛ばされたか・・・・・・?」
もうじきに紅葉の季節なのだと思うと、流れる月日の早さを実感させられる。薄手の長着ではさすがに肌寒く、早々に家のなかへ戻ろうとした時だった。
たき火の跡にひらひらとなびくなにかの燃えさし。そういえば、さっき銀時があわてて出かけていったのを思いだす。
全部燃やす前に火を消してしまったのだろうと気にもとめずにいたが、見覚えのあるそれを、高杉は無視することができなかった。あちこちが焦げたそれを、そっと灰のなかから拾いあげる。
それは確かに、高杉のよく知るものだった。
「新聞・・・・・・?」
ひときわ大きな見出しが踊る一面。わずかに残る文字が、高杉の意識を貫いた。
知ってはいけないような気がする。しかし意識を律するより早く、予感に震える手が燃えさしをかき集めていた。
《ターミナル爆発、鬼兵隊の犯行濃厚か》
《指名手配・高杉の行方は未だ知れず》
なんだ、これは。
呟いたはずの言葉は、声にすらなっていなかった。弾かれたように部屋へ駆けもどり、先ほどまで読んでいた新聞を手にする。
拾いあつめた燃えさしのすみには、黒い四角形に白抜きで頁番号が載っていた。だがしかし、高杉が読んでいた方――銀時から毎朝手わたされる方には、同じ箇所に黒い四角形があるだけだった。――塗りつぶされている。
わたされていた新聞は、その何頁かを抜きとられ、頁番号を隠されたうえで高杉の手にわたっていたのだ。
見開いた目の奥で、鈍い頭痛が脳を揺さぶる。
堅牢だったはずの箱庭が、外界を遮蔽するその壁がもろくも崩れおちる音を、聞いた気がした。
夕刻に帰ってきた銀時は、高杉を見るなり、この穏やかな日々の終わりを察したようだった。
「嘘だったんだな」
「・・・・・・」
向かう先を見つけ、甦った怒りの火にあぶられて、その声はひどくかすれていた。銀時はなにもいわない。なにをいっても無駄だと、分かっているのだ。
「なぜこんな真似をした」
そう、すべて嘘だ。高杉は思いだしていた。
終戦後、散り散りに落ちのびた自分たちが、いつしか道を違え、決して交わらぬ存在となったこと。高杉は己の目的をなすため、銀時は己の大切なものを護るため、剣を交える結果になったこと。鬼兵隊によって江戸が燃やされ、銀時との最後の決着に選んだ場所が、ターミナルであったこと。
「なんでだと思う」
「・・・・・・ここに刀がねェのが至極残念だ」
刀さえあれば、理由を訊く前に叩き斬ってやるのに。
なにもかも許せない。すべてを嘘でかためていた銀時も、その嘘にいだかれてまどろんでいた自分も、優しさと信じていた言葉も、穏やかと信じていた日々も、なにもかも。
「全部ぶっ壊してやる」
銀時が眼を細める。
「高杉」
「寄るな!」
近づいてきた彼を、のばされた手を、渾身の力で振りはらった――つもり、だった。
「無理だって」
傾いだ体を、不本意にも抱きとめられる格好になり、高杉はいよいよ激昂する。
この期に及んで読めない彼の真意が、今はただひたすらに憎い。
「てめェ、ふざけ――」
「ごめん」
刹那、項に感じた鋭い痛み。なにをされたか理解するより早く、視界が闇に侵されはじめる。その視界のすみで、銀時が注射器を投げすてるのが見えた。
意識が暗い淵に沈んでいこうとする、これでは、まるで、また
「もう一回、やり直すから」
「銀時・・・・・・っ」
薄れゆく意識のなかで見た、――きっと忘れてしまうその表情は、形容しがたいほどに悲しげで。皮肉なことに、高杉が最初に忘れたものは、彼に抱いていた燃えるような怒りだった。
「今度こそって思ったんだけどな」
意識をなくした高杉の体を床に横たえて、呟く。
彼に投与したあの薬は、一定の時期まで記憶を後退させ、以降の記憶を思いだすことを阻む。何日かの昏睡ののち、やがて目覚めれば、高杉はまた今日までのすべてを忘れ、攘夷戦争下のあの頃へ戻るのだろう。
しかし、何度やってもそのあとがだめだった。どこかで高杉は記憶を取りもどし、袂を分かった彼となって、銀時から離れようとする。
「・・・・・・なあ高杉、あといったい、何度」
同じことを繰り返せばいい。
気づけば泥沼化したそのサイクルは、時ばかりいたずらに費やしながらも決して望む結末をたどることなく、永劫に巡りつづける。
それでも、銀時は待つのだ。彼がなにも思いだすことなく、穏やかに自分と暮らしてくれる、その結末を。
*
混沌とした暗闇の上から、すがるような声が聞こえる。
「高杉」
何度も、何度も同じ言葉だけを繰りかえして、願うように祈るように、その声は間断なく鼓膜をゆらす。
「高杉」
必死と形容するに足るその言葉は、名だろうか。聞きおぼえがあるようなないような、不思議な心地がする。
「高杉」
そう、それは名だった。
少しずつ、ばらばらに飛びちっていた意識が集まりはじめる。
おぼろげな仲間の顔、硝煙の匂い、噴きあがる血、体温を奪う雨、そして誰かが呼ぶ声。
タカスギ、高杉――それが自分の名だと一瞬ののちに思いだし、同時に声の主に思いあたった。答えなければ、目覚めなければと、ともすれば落ちていきそうになる意識を引きあげる。
そうして重い瞼をこじ開けるのに、さらに数秒の時間を要した。
「高杉」
開いた目に映るのは、思ったとおり、日に透ける銀髪が眩しい幼なじみの姿
「・・・・・・銀時」
確かめるように呼べば、めったに見ない微笑が返されて少し驚いた。
「やっと起きやがった」
安堵したように呟くその声を、高杉はいつか、どこかで聞いた気がした。